2005 年09 月29 日
結局、自分の原信頼は何なのか。
医療心理学の授業を受けている途中に色々考えた。ベーシックトラスト。人生脚本。それらを探さなければ自分は一生このもやもやを抱え続けて行かなければならないと思った。人生脚本は私が幼児だった頃によく読んだ、読み聞かされたキンダーブック各種、或いは醜いアヒルの子、シンデレラといった名作、そして星の王子様、これはかなり成熟してから、まだ未熟ではあるがそれでも昔よりは十分成熟している、永遠の少年の心理を探るべく読み始めた本になるので少し例外的だが、これらのいづれかが該当すると思われる。今度実家に帰宅した場合、その辺りを重点的に読んでみようと思う。
さて、原信頼であるが、明らかに過保護であった母の影響を非常に強く受けている。無論、育ててくれた事に対して大いに感謝している。だが、それが原因だろうか、私は母性を恋しく思っている。直接母に会う事である程度は解消出来るものであるが、もはや問題はそれだけに留まっていない。母なる母性ではなく、それ以外の絶対的な母性を求めてしまっている。
人間の性格構築における因子は、遺伝に因るもの、そして環境に因るものの2種類に分類される。遺伝は100%親の影響によるものであるが、では環境はと言うと、これはやはり自分で決定できるものではなく、やはり親に因るものである(親にすら回避不可な出来事がある場合はそういうわけには行かないが)。つまる所、性格は100%親によって決定されるわけである。
では、やはり母親が悪いのだろうか。しかし私は母親に感謝しており(一時期母親を原因としていた事もあったが)、その結果、その責任追及の対象が父親に行くわけでもなく(それも一時期あったが)これは既に自分自身の問題ではないか、と思い始めている。親に責任を押し付ける事が出来たらどんなに楽だろうか。いや、押し付ける事は可能であるが、それは全くの無意味である(やはりこれも半分くらい体験から感じる事である)。一旦決定された性格をいくら変更しようとしても、それはかなり困難な事である。何故なら「変えよう」と思うこと自体が既にその人の性格であり、それを変える事は、即ち「変えない」という事であるからである。
私は試行錯誤の結果、陽気に振舞い、それも極端に、おどけて、何とかその母性求愛から逃れる事にした。しかし、それは単に蓋を閉めただけであって、問題解決には至っていない。以前記した「マスカレード」である。結果は「妙に疲れた」である。
そして私はこの苦しみをいつまで抱え続けるのだろうか。胎盤回帰、解放、赦し、そういった類のものを切実に欲している。無償の愛に限りなく近い存在だと思う。しかし、これは思って入手できるものではなく、そのジレンマが結局躁状態を引き起こしてしまう。困ったものだ。
投稿者:未定at 20 :42| 戯言 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )